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文化財の紹介【その他】三岳寺廃寺跡

ページID:0001559 更新日:2025年12月16日更新 印刷ページ表示

三岳寺廃寺跡(1)三岳寺廃寺跡(2)
三岳寺廃寺跡(3)三岳寺廃寺跡(4)

北谷の山小屋から北へ500m行き谷川を渡った南向きの谷の寄り合ったところに、廃寺跡がある。

一番西に僧坊らしき基壇石積が少し残り、続いて東西に三段位になってやや平坦になっている。東の端は鐘楼へ登る石段と考えられる手を加えられた石が崩れて残っている。この尾先に鐘楼があったと言われている。寺跡の中央部に手洗石が1個あり、片方が欠けているがこれが唯一の寺の名残りをとどめるものである。廟所(墓地)は谷の南側にあって雛壇状に区画の跡が見え、五輪の石塔が数基残っている。

この寺は、比叡山の伝教大師最澄によって大同2(807)年に開かれたと伝わっているが、確かなことは判らない。天台が盛んな頃は、僧坊に僧兵が集まって北伊勢の天台系の寺をその支配化に置いたと言われている。

千種の音羽は三岳寺の寺領であって、今も村の地名に鐘突田、油田、岳道の名が残っている。また、音羽の虚空蔵寺の本尊は秘仏であり、元三岳寺にあったものだと言われている。参道は菰野富士北側の鳥居口より入るのが往昔の参道であって、江野から丁仏があったが、今は失われ、2、3石仏が参道の道端に残っている。

永禄11(1568)年頃信長の兵火により灰燼となり滅亡したと言われている。その後江戸時代に入って、国見岳より江野にかけての千草村外と菰野村とに村境の山論が生じ、また三岳寺の寺号山号の帰属を巡っての争いがあった。