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【その他】菰野城跡

更新日:2017年4月1日

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菰野小学校西南に建つ碑
【その他】菰野城跡

菰野城は菰野藩一万二千石の大名土方氏の代々の居城であった。現在は菰野小学校の敷地になって西側と北側に城壕に一部と築地が遺り、藩邸の庭園の一部が西南の隅に僅かながら名残をとどめ、そこに菰野城跡の碑がある。また、西南を流れる振子川に面して、角櫓跡があり、その東方に石積の遺構の一部が見られる。

明治6(1873)年の廃城の際、藩邸の一部は鵜川原の禅林寺へ、門は朝上小島の金蔵寺へ、馬屋の一部は四日市市赤水の農家へ、角櫓は池底の農家の納屋として移された。しかし金蔵寺の門以外の建築物は、老朽化による崩壊の危険性等の為解体された。

藩士が居住した区域は「藩内」という地名として残り、南北、東の城戸の跡も道路によって木戸柵のあった事が判る。場内の古絵図も旧藩士家に遺されていて、藩邸、藩士の屋敷割、町並等藩政時代の規模をうかがうことができる。

藩主の始祖、土方雄久は尾張に住み、織田信長の子信雄に仕えていた。永禄11(1568)年に信長が伊勢を平定し、同12(1569)年に滝川一益に北勢五郡を与え、三重郡の代官所を菰野に置き、その家臣の南川治郎左衛門が代官であった。天正11(1583)年織田信長の所領となった時、土方雄久を菰野七千石に封じ、天正18(1590)年信雄が秀吉に追われるまで、雄久の所領であり、この一時期は見性寺に城を構えていた。雄久の子雄氏が慶長5(1600)年家康より菰野一万二千石を与えられ、入部当初は滝川代官所跡を修補して、仮藩庁を設けた。藩士も宿野、福村、吉沢の諸村に散在し、藩主は京都に住んだ。寛永年間(1624~1643)、2代雄高の代に藩邸を建て、藩士の屋敷も設け、東町を開き、城郭の構えを整えた。

菰野城は初代土方雄氏より12代雄永が、明治2(1869)年に廃藩に至るまでの約270年間、藩主の転封、移動もなく土方氏の居城であった。これは長い江戸時代を通じて見ても、珍しく、誇るべきことである。

藩政時代、菰野藩の統治下にあったのは次の村々であった。
三重郡の水沢、小山、山田、黒田、吉沢、上鵜川原、池底、潤田、西・中・東菰野村、宿野、福村、神田、森、近江栗太郡(草津市付近)部田(へた)、羽栗、南笠、上笠の合計19ヶ村である。
 

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