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【その他】西行庵跡

更新日:2017年4月1日

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西行庵跡に建つ歌碑
【その他】西行庵跡

福王山バス停から北へ約500m、巡見街道の傍らに西行庵跡の碑があり、それより左へ150m登った、赤松林の丘の上に西行庵跡がある。

東に伊勢平野が広がる見晴らしのよい地であり、ここに平安末期、鎌倉初期の歌僧であった西行法師が庵を結び居をかまえた跡であると言われている。

西行法師は各地を行脚して歌を詠み漂泊の旅を生涯続けたが、晩年は伊勢国を本居にしていたようである。伊勢市の神宮の近くにも西行谷と呼ぶ旧跡がある。ここ田口の西行庵跡で詠まれたという歌が、『山家集』(佐々木信綱編)春の歌の部に、

伊勢国にしふく山と申す所に侍りけるに庵の梅の香はしく匂ひけるを

として、

柴の庵 よりより梅の 匂ひきて やさしき方も あるすまい哉

と伝わっている。

『山家集』の「にしふく山」は、今の福王山のことを指していると思われる。

後に村人たちは西行法師の徳を慕い、このところに歌碑を建てた。大正の初め頃史跡の保存の記念碑を建て、この場所に6坪程の建物を設け、句会歌会が催された。

西行は俗名を佐藤義清といい、俵藤太秀郷9代の嫡流で代々武勇の誉れある家に元永元(1118)年に生まれた。鳥羽上皇の代に北面の武士として仕え、左兵衛尉に任ぜられたが、23歳の時突然出家、遁世した。その出家の動機は時代風潮の無常観の厭世によるか、時世に対する憂慮か、又、伝説の様に近親者の急逝による為であるか、確かなことは判り難いが、出家して高野、吉野に隠れ、また諸国を遍歴した。西行は西は九州、中国、四国から北は奥州に至るまで足跡がある。

文治2(1186)年の秋、69歳の西行は伊勢を発して、東海、奥羽の大行脚に上った。晩年は京都に帰り、洛東双林寺辺りに庵を結び、後に河内に移り建久元(1190)年 73歳の時に弘川寺でこの世を去った。
 

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