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【その他】下江平遺跡
更新日:2017年4月1日
下江平遺跡出土物
左:「倭家」の字が見える
右:裏「財」 表「交」 の字が見える
下江平遺跡は伊勢湾にそそぐ朝明川左岸杉谷川の扇状地上に位置する、奈良時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡である。菰野町大字田光字下江平の圃場整備事業に絡み、昭和61年度と昭和62年度に包蔵推定地200,000平方メートルの内、100,000平方メートルの発掘調査が実施され、墨書土器が発見された。
この地は事前に行なわれた試掘調査で大規模な包蔵地であることが確認された。周辺には杉谷城跡、杉谷遺跡、観音寺跡、高塚古墳群などの周知の遺跡があり、また、古代から使われていた八風街道などとの関連も有り、注目すべき遺跡と言える。
当遺跡は、秩父中生層と花崗岩類からなる鈴鹿山脈の麓、朝明川とその支流である田光川に挟まれた、標高63~74mの東へ緩やかに傾斜する根の平扇状地の東側に位置する。発掘調査の結果、奈良時代から室町時代のものと推定される須恵器・土師器など、多くの出土物が確認された。
中でも、竪穴住居や土坑埋土から発掘された奈良時代の土師器あるいは須恵器の外面に「倭家(やまといえ)」(右図)「家」「中」「本(奉)井」、内面と外面にそれぞれ「交」「財」(左図)「五十戸□」の他、墨書土器が計8点発見され、注目を集めた。
「倭家」については、地名もしくは人名を示すものと考えられるが、付近にそのような地名は残っておらず、文献にも伝えられていない。人名等については、国造家の「倭直」、帰化氏族の「倭漢直」「倭忌寸」、職業部としての「倭鍛冶」の他、日本書紀に登場する「倭姫命」などがあるが、直接結びつくようなものは現在のところ判明していない。しかし「倭家」と「家」を名乗っていることから、当地における豪族層の屋敷、里長の屋敷などの存在も考えられる。
「五十戸□」については、土器あるいは木簡に記された例が飛鳥、藤原、平安京など官衙(かんが)遺跡での出土品に多く、下江平遺跡の性格を考える上で重要である。
下江平遺跡の所在するこの地区は、古代において朝明郡田光郷に属すると考えられ、これらの墨書土器の出土、あるいは整然と配置された掘立柱建物群は、律令国家体制における地方行政組織の一端に関わる遺構と考えられ、「五十戸」の存在から里長クラスの在地豪族層の居宅の一部をなす可能性が強いと考えられる。
注:「五十戸□」の「□」は判読不能の文字を示す。
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