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【町指定】菰野藩主土方家三代 雄氏・雄豊・義苗の肖像画(三幅)

更新日:2017年4月1日

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有形文化財

【町指定】菰野藩主土方家三代 雄氏・雄豊・義苗の肖像画(三幅)
【指定日】平成19年4月20日
【所在】大字菰野 見性寺

見性寺所蔵の菰野藩主3代の肖像画には、藩祖雄氏、3代雄豊、9代義苗の3人がそれぞれ描かれている。この3人の藩主は、菰野藩史の成り立ちに大きく関わった人物である。

【藩祖雄氏の肖像画】(画像上)
顔貌は写実的に描かれ、優れた肖像画である。画面上部には貞享4(1687)年の賛文があり、3代藩主雄豊が描かせたものであることがわかる。

雄氏は、天正11(1583)年7月美濃に生まれた。父の雄久と共に文禄3(1594)年秀吉に仕え、雄氏は伊勢国員弁郡石榑郷、森忠郷で三千石の知行を与えられた。慶長3(1598)年秀頼に仕え、従五位下に叙し、丹後守に任ぜられる。

慶長4(1599)年9月、大阪城の徳川家康暗殺未遂事件で父の雄久と共に疑いをかけられ、常陸太田の佐竹氏の元へ追放された。しかし同5(1600)年7月、石田三成挙兵の報を知った家康は、雄久、雄氏を召し寄せ、天下分け目の合戦に参加の命を下した。これを受けた父子は揃って東軍側について従軍し、家康の勝利となった。雄氏は伊勢三重郡内で一万石、近江国で二千石の知行を与えられ、同6(1601)年初めて菰野の地に入り、陣屋を築いた。   

寛永7(1630)年菰野城の南、前山の麓に八幡宮を創建した。これが現在の廣幡神社である。同12(1635)年病に罹(かか)り、家督を嫡男雄高に譲り、京都武者小路の別邸に隠居、同14(1637)年、京都北山に父雄久の菩提を弔う為功運院を創建した。同15(1638)年6月28日京都において病死、功運院に葬られその謚(おくりな)は見性院と称する。

【3代雄豊の肖像画】(画像左下)
画面上部に宝永7(1710)年の賛文があり、4代藩主豊義が描かせたものであることがわかる。

雄豊は京都の雄氏の妾腹の子であったが、2代雄高に嫡子がないことを受けて、跡目と定められ、慶安4(1651)年雄高死去によって雄豊は藩主の座に就くことになった。雄豊は、寛永15(1638)年11月京都武者小路邸で生まれ、嫡孫豊義に相続するまで、藩主の座にあって政務を見ること55年の長きにわたった。

貞享元(1684)年磐城国菊田郡窪田藩の土方伊賀守雄隆が後嗣問題でお家騒動が起こり城を没収されて改易処分を受けた。この事件を知り、雄豊自身が傍系より入り家を継いでいることもあって将来を考え、宝永2(1705)年5月に次男久長に江州部田村の領地千石を割いて分家を創立した。

貞享4(1687)年湯の山温泉の復興を企画、慶長の頃から廃泉となって寂れていた温泉を、壺屋権七がこの復興を藩庁に願い出てきたのでこれを受けた。そして沿道に桜、楓を植えさせ、温泉の開発、浴室の工事等の後援を行い、八戸の湯宿を建設させるなど温泉として設備を整えた。

宝永2(1705)年の7月30日江戸愛宕下の藩邸で逝去、68歳であった。湯島の麟祥院に葬り通霄院と称する。

【9代義苗の肖像画】(画像右下)
義苗は天明3(1783)年12月に土方家を継いだが、この時わずかに5歳であった。義苗は幼少であった為、政務は麻布の別邸にいた養祖父雄年及び伯父数馬義法が代行していた。

当時藩財政は、毎年借入金によって支える現状であり、臨時に出費となったらどうにもならないという窮状に追い詰められていた。

義苗はこの打開策として、寛政10(1798)年臨時準備積立法を制定、文化4(1807)年から江戸在所の内用に大緊縮を加えた。義苗は、藩財政を整理する為に自ら極度の倹約を守っただけでなく、士風が退廃し民心が荒廃して、庶民生活が安定しないのを憂いて「御倹約触」と称する勤倹質素を奨励する教令を出すこと前後9回に及んだという。

また、儒学者南川蒋山の麗沢館建築を助成して文教を奨励し、西菰野村矢田宗九郎の請願を入れて大湯水の取付工事、丸池溜の拡張修築工事等には多額の藩費を支出して農耕を奨励する等、60年の長きにわたって教化と産業の開発に力を尽くした。

弘化2(1845)年6月28日、江戸愛宕下の屋敷で逝去、67歳であった。霊光院と称する。
 

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