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【町指定】円空作両面仏
更新日:2017年4月1日
有形文化財
【指定日】昭和48年7月24日
【所在】大字菰野 明福寺
円空作両面仏は、阿弥陀如来、薬師如来の両尊像で来世の幸福を願う阿弥陀信仰と、病者を救う薬師如来の現世利益の願が両面仏に込められている。尊容は二面とも美しい優しい御目と口許に微笑みを感じ、声をかけたくなる様な親しみがあり、深い感動を伝えると評されている。木質は椹材で、一本彫御丈1.66mの両面彫刻は石仏の両面彫刻をならったものであると言われ、珍しい構想である。数ある円空作品の内でも大きさから言っても珍しいもので、円空の代表作の一つである。
この両面仏はもと伊勢神宮の神宮寺であった伊勢市の常明寺の持仏で、明治初年の廃仏毀釈により常明寺も廃寺となり、この両面仏も廃棄されようとしていた。これを惜しんで、明福寺13世住職賢竜の弟、大正が多気郡津田村の法受寺住職の時に貰い受け、生家の明福寺へ持ち帰ったものである。延宝年間(1673~1680)円空が伊勢志摩を巡った時の作品と言われている。
円空上人は岐阜県の羽島市付近で生まれ、七歳の頃出家して密教を学んだ江戸中期の僧である。円空はその生涯定まった寺を持たず、あまねく各地を巡って布教した。北海道へも渡り洞爺湖まで進み、アイヌ民族の教化にも力を尽くした。全国至る所で荒削りの仏像を多く刻み、元禄8(1695)年に亡くなっている。
日本の仏像は仏教の伝来と共に、飛鳥、奈良、平安、鎌倉と経て、仏教が隆盛になると共に大きな仏像を自由に木材で造る寄木造りの手法が確立され、立派な仏像彫刻が生み出された。時代が下って室町以降江戸時代に入っての仏像は形ばかりで、美術的に優れたものは少ない。ところが円空の彫刻は、これ等の古典仏像とは異なり、全く独自の日本の生んだ民族的なもので、円空彫刻は戦後、その真価が評価され、民家や寺院の奥深く埋もれていたものが発見されて、世に認められるようになった。その作像された仏像はことごとく庶民的で親愛感をうみ、彫刻の手法は丸太の木材を縦割り、四ツ割にして意の向くまま、自由に大まかで、直截な力強いたくましさを感じる。
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