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【その他】国見岳・鳥居道山の境界石

更新日:2017年4月1日

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「界」の文字が刻まれた境界石
【その他】国見岳・鳥居道山の境界石

嶽屋敷の鐘突堂のあった跡から尾根伝いに南に行った所に「界」と彫られた六畳敷位の巨石がある。この石から国見岳頂上を見通した線上の、頂上東側の容易に近づくことができない絶壁の鏡岩形の巨岩に、同じく「界」の字が彫られている。この「界」の文字は、慶長年間(1596~1615)から起こった、菰野村と千草村との間での山論(山林の境界を争う村境論と、入会権の存否をめぐる争論)の歴史を示すものである。

江戸初期は近江と伊勢の国境論をはじめとして、境界争いが多く、中期を過ぎると境界はほぼ安定して、入会権の有無について、殊に数カ村が入会利用する山に絶え間なく争論が発生した。

江戸期になると土地の経済的な価値、森林が薪炭、採草の資源として、山村の生活を支える場として何より大切であるという観念が生まれた。そしていったん争論が起こると村を挙げて膨大な費用と長い年月をかけて執拗に争った。

山論が起きると、菰野の場合、第三者の近郷の庄屋などが仲に入って調停工作を行ったが、不調の場合は藩庁に持ち出された。藩庁でも解決ができない時は、遠い江戸まで出向き幕府の評定所の裁定を仰いだ。

そのような争論が国見岳から菰野富士にかけての村境、菰野村と千草村との間に起き、度々出入りの小競り合いを繰り返していた。この境の争論は、菰野や桑名城下では解決できず、遠く江戸の評定所まで出向き、幕府の公裁を仰いだ。争論は慶長年間にはじまり、延宝年間(1673~1680)まで延々と続いていた。しかし寛文12(1672)年12月12日、幕府から絵図面上に墨で線引きが下された。   

そして明治、大正と経過し、太平洋戦争が終わり新しい民主政治が行われ、共有林の入会権は財産区有の組織で自治体の下で管理運営されることになった。

昭和27(1952)年の4月30日、千種村村長と菰野町町議会財産区議会議長の斡旋で、千草財産区、鳥居道財産区と菰野財産区の代表者が協議の上、寛文12年に裁定されたものを一部改め界の字間を直線で線引きすることに決定した。界の字の石から北側が旧千種村地、南側が菰野町地と定められた。
 

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