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【その他】田光の高札場

更新日:2017年4月1日

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多比鹿神社の広場にある高札場
【その他】田光の高札場

多比鹿神社の大鳥居前の広場の西側に高札場がある。この高札場は昔、南の亀山から来た巡見街道と、桑名から上ってきた八風街道が交差する重要な辻であった。昔は高札場のある前の辻のことを「札の辻」と呼んでいた。

高札場とは高札(制札)を立てた場所のことをいい、幕府は法令を木札に書いて街道の辻など人々の目につきやすいところに建て、法度の周知徹底を図った。普通、高札は横長の板の上部をゆるやかな三角にして裏に棧をつけたもので、形は大小さまざまであった。高札場の規模は、石を積み一段高くして、そこに檜の3寸(約9cm)角の柱を埋め、高さ6尺(約1.8m)、幅5尺(約1.5m)の大きさにして柱には横に貫を通して、上に雨おいの屋根をつけ、周りに柵を設けることに定められていた。

田光の高札場の屋根は瓦葺で柱は檜を使い、周りを頑丈な柵で囲い、基礎は丁寧に切石で亀甲積みにした立派なものである。

村々の高札場の管理には庄屋が当り、その設置の費用は藩から出た。これを、故意に傷つけたり壊すと罰せられた。田光村が桑名領のとき、高札を新規に書き換えする為に、村の大工に札を作らせ、それを桑名の代官へ持参して祐筆に墨で書いてもらい、その高札を渋紙で包み、さらに菰に巻いて持ち帰り高札場にかけている。

幕府の嘉永4(1851)年に田光村が天領下に置かれていた頃、近江の信楽代官所へ願い出て立てた高札は、

「八風大明神境内に汚穢不浄のしなものはもちろん陶器の類を埋め候もの見つけ次第留め置き訴えいでべきものなり」

と書いた札で、これは「お菊の伝説」にあるように、八風峠を陶器等を持って通行すると、必ず山が荒れ、大洪水になると信じられていたので、それを禁じた札であった。

高札場は明治維新となって廃止となった。
 

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