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【その他】尾高観音

更新日:2017年4月1日

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本堂の六角堂
【その他】尾高観音

釈迦岳直下の山麓、檜の古木が美しい林を作っている静かな森の奥に、六角堂の屋根が見えている。尾高観音堂の本尊は御丈5尺8寸(約1.7m)程の等身大木彫りの千手観音立像であり、聖徳太子作と言われている。

古くから伊勢観音三十三番の札所として庶民に親しまれてきた。この尾高観音は、旧引接寺といい二十五番の札所であり、二十六番の札所は杉谷の村中にある慈眼寺で旧観音寺といった。いずれも中世は天台宗、若しくは熊野信仰の混交で杉谷寺と総称されて大いに栄えたときがあった。昭和38(1963)年と同40(1965)年に発掘調査を行い、明らかになった「杉谷遺跡」の五輪塔と蔵骨器の出土品は、この時代の杉谷仏教文化の繁栄ぶりを証する遺跡である。これらの中世の寺院は永禄11(1568)年信長の伊勢進攻により滅亡した。

江戸期杉谷村は桑名藩領下に組み入れられ、この観音堂は引接寺と称し桑名藩主の菩提寺、浄土宗照源寺の末寺に置かれた。その為か、本尊千手観音を安置する厨子は桑名城主の寄進といわれる。

明治5(1872)年になって住職無住、そして無檀家の寺院は廃寺の令が出て、一時、本寺の照源寺預かりとなった。この廃寺の令を杉谷の村民は哀しみ、一村共有の山林2町4反歩を寺地として寄進、また檀徒も新しく37名を募り再興の願いを県に上申した。明治20(1887)年になり、宇治山田岩淵町の空寺、慈眼寺の株を本寺照源寺の斡旋により譲り受け、寺号を慈眼寺として再興が許された。その後は慈眼寺の奥の院としてこの観音堂は守られてきた。

現本堂は六角堂で、基壇は六角型で花崗岩の切石積みである。堂は文化12(1815)年杉谷の宮大工増田兵蔵が建立し、嘉永4(1851)年に修理を行い、更に昭和10(1935)年、同57(1982)年に屋根の萱葺替えを行っている。屋根の頂部に六角の露盤(仏塔の相輪のいちばん下にある盤)に請花付の宝珠をのせている。本堂前に天和2(1682)年建立の各石燈籠がある。
 

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