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【その他】田光城跡

更新日:2017年4月1日

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多比鹿神社社叢の中に田光城跡がある。
【その他】田光城跡

田光城は田光集落の北西、鈴鹿山脈から延びた標高120mの丘陵上にあり、中世の砦跡である。南側を田光川が流れ、切り立った絶壁となり、西側は空堀で支脈を断ち切り、北側も急な斜面となっていて天然の要害の地である。東は多比鹿神社の神域と地続きになり、集落からの木戸口となっている。主郭は周囲に石積のある土塁が巡っており、曲輪、土塁、空堀、天守台、井戸などの遺構が残っている。

城の規模は東西250m、南北80mの範囲に渡る。中心部に飲料用の井戸があり、西よりに物見櫓の跡か方形の台地がある。頂上部は田光村の庄屋であった諸岡家の墓地となっている。

交差する交通の要所であった八風街道は、古くから峠を越えて北伊勢と近江を結ぶ街道で、伊勢湾の海産物、瀬戸、常滑の陶器をはじめ、生活物資の交流が盛んに行われた。特に近江の八日市付近を根拠地とする近江商人は、伊勢の田光、梅戸、桑名、四日市に常駐して商いを行っていた。田光はこのような経済、軍事上の重要な地点にあった。

田光城は、はじめ平安中期の頃田光隼則が築いたものといわれ、後に梅戸氏と姓を改めた。戦国時代になると、近江の豪族、佐々木高頼の四男高実を嗣子として迎え、梅戸左衛門尉高実と名乗った。高実は田光城を再興し、併せて通行税徴収の為に梅戸城(いなべ市大安町)を築き、この地方を支配した。戦国動乱の世は、北勢の諸豪士と共に興亡を繰り返し、遂に永禄11(1568)年信長の北伊勢進攻により落城し、滅亡したという。
 

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