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【町指定】菰野藩十代藩主土方雄興の日記

更新日:2017年4月1日

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有形文化財

【町指定】菰野藩十代藩主土方雄興の日記
【指定日】平成19年4月20日
【所在】大字菰野

菰野藩10代藩主土方雄興の日記は、雄興の嫡子時代の31歳から藩主であった40歳までの日記である。

日記は文政12(1829)年正月元日にはじまり、天保8(1837)年5月2日に終わる約8年半の和綴りのもの11冊と、天保8年5月2日から翌9(1838)年閏4月15日までの仮綴りのもの、合わせて9年半分である。すなわち嫡子時代の31歳からの6年間と藩主時代の37歳からの3年半が記されている。

外様小藩の日記が少ない中、こまめに記されているので、菰野藩の藩政史の一端や、江戸での登城の様子をうかがうことができる。さらに家族の動向も踏まえて藩主の日常的な事柄も丹念に記されており、大変貴重な史料と言える。

雄興は寛政11(1799)年江戸愛宕坂下の屋敷で生まれた。母は田沼意知の養女である。天保6(1835)年父義苗が隠居することとなり藩主となった。時に雄興37歳、壮年40歳近くになってから家督を継いだ者は、土方家では雄興1人である。

雄興は義苗の意志を継承して藩学修文館を興して文教の振興を図り、武術の指導鍛錬を厳正にして、文武両道を盛んにしたこと前古に比なしとさえ言われた。

天保8年には、丸亀城主京極長門守高朗と共に院使、勅使の饗応役を命ぜられ、責を果たしたが、その時の費用負担は相当多額となり、藩としては大きな負担となったことは事実である。江戸幕府は後に政治手腕を認めて若年寄候補としたが、財政上その任に当たり難しと固辞したという。

雄興の幼少時は、藩の侍講から四書五経をはじめ書道も学んだようで、達筆であった。さらに歴代藩主のなかでも文学を好み、和歌、馬術に優れていた。文政5(1822)年9月7日、雄興24歳のとき御在所岳、鎌ヶ岳へ登山して『冠嶽の記』『おく山ふみ』などの紀行文をはじめ、『懐中日記』など和歌を散りばめた名文書を残す稀な文人藩主であった。

天保9年病に罹り、家督を嗣子雄嘉に譲る。同年7月2日逝去、40歳であった。湯島麟祥院に葬り見龍院殿懿徳同応大居士と称する。

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