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【町指定】絹本着色仏涅槃図(月僊)

更新日:2017年4月1日

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 有形文化財

【町指定】絹本着色仏涅槃図(月僊)
【指定日】平成元年4月1日
【所在】大字菰野 智福寺

黄檗禅寺である和合山智福寺の創建は、菰野川原町の紺屋某が如来寺の開山祥蓮に帰依して出家、蓮西と号して菰野城の西、門内の地に小堂を建立したのがはじまりという。この地は寺の古跡で一本の山桜の老木が残り、その木の下に形ばかりの庵を結び観音像を祀っていたので桜堂とも呼ばれていた。享保4(1719)年黄檗宗の僧、賢州が近江から山越えで当地へ来錫(教えを説きに各地を回ること)、和合山智福寺として禅宗寺院を興した。その後は代々尼僧が住職を勤めた。

第6世岱岳和尚の時仏涅槃図の制作を企画、伊勢山田寂照寺の画僧月僊に依頼、寛政7(1795)年12月に完成した。この涅槃図の調製に際して中菰野の清兵衛をはじめ、70名の村人が寒念仏(寒夜、鉦を叩いて念仏を唱え歩くこと)を行い、付近の村から浄財を募り、その費用に充てている。その70名の名は涅槃図の裏に記されている。

なお、作者の画僧月僊は寛保元(1741)年名古屋の商家に生まれ、7歳で仏門に入り江戸に出て桜井山興に画法を学び、のち京都知恩院の住僧となった。京都において画技を学び、更に円山応挙について修行、34歳のとき伊勢山田の浄土宗寂照寺の住職となった。画は人物、花鳥、山水を得意とし多くの作品を遺した。画僧月僊は平素、粗衣、粗食で過ごし乞食月僊と呼ばれていた。収入の画筆料を貯え寂照寺を復興し、山田奉行所へ1500両を寄託して貧困者の救済費、道路の改修費などに充て、生涯公衆の為に尽くした篤行(人情にあつい誠実な行為)の僧であった。文化6(1809)年寂照寺で死没、享年69歳であった。


◎形状
縦2.8m 横1.72m 軸表装1幅

◎落款
寛政七年歳在乙卯冬十二月弟子寂照月僊梵香祥写
 

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