メニューにジャンプ コンテンツにジャンプ

トップ  > 町の紹介 > 菰野町の歴史 > 湯の山歴史こばなしめぐり

湯の山歴史こばなしめぐり

更新日:2017年4月1日

シェア

湯の山の哀愁伝える道

昭和のはじめごろの湯の山温泉は避暑地として別荘がいくつもあり、また老舗の旅館からは浴衣姿の湯治客が夕涼みに三滝川沿いを散策する姿が見られたと言います。いまでも温泉街には大石公園や蒼滝などの景勝地のほか、謂れのある常夜灯ろうや三滝川にかかる石の橋、温泉の湯元、芭蕉の句碑など見どころが残されています。そのうちの10ヶ所を選んで、歴史こばなしの道として説明盤を取り付けた菰野石(花こう岩)が置かれています。10カ所でおよそ3キロ、2時間のコースです。

春の桜や新緑の季節、また、秋は例年10月の初めに山頂から始まる紅葉が、1ヶ月ほどかけて温泉街まで降りてきます。のんびりと湯の山散策はいかがですか。

場所 内容
1.湯の山消防車庫西 「鈴木小舟の歌碑」
2.翆明館裏手 「蒼滝の常夜燈」
3.蒼滝橋 「蒼滝橋を架けた定五郎」
4.寿亭石段の壁 「阪 正臣歌碑」
5.杉屋旅館北側 「盛岡から来た植物採集家」
6.温泉湯元 「温泉の湯元」
7.三嶽寺 「湯の山三嶽寺 芭蕉の句碑」
8.大石橋 「大石橋と小菅剣之助」
9.誘い橋付近の川床 「佐佐木信綱の歌碑」
10.中の島公園 「菰野山の調査」
11.あかね橋手前 「蛸杉」
12.ロープウエイロータリー 「御在所山か、ございしょが岳か」

湯の山歴史こばなしめぐりマップ

1.鈴木小舟の歌碑
小舟は安政4年(1857)菰野に生まれました。碑にある「世の中の春にはあそひあきにけりいさ鶯と山こもりせむ」の歌は、明治29年に皇后が伊勢神宮へ行啓の際詠進したもので、これが縁で大正12年東京で没するまでの10数年間、宮内省御歌道御用皇后宮職御雇として登用され、歌道について皇后に奉仕しています。
 
鈴木小舟の歌碑
2.蒼滝の常夜灯
この灯籠は、尾張国大宝村(現在の海部郡飛島村)の長尾治右衛門(尾張藩の許しを得て大宝新田の開拓をした人)が、湯の山へ湯治に来遊して温泉の効能で病気が治り、その感謝のしるしに蒼滝不動尊に常夜灯を献納したもの。花崗岩の自然石を宝珠、笠、火袋、中台、竿とたくみに組み合わせた、いわゆる庭向きの寄せ灯籠です。
蒼滝の常夜灯"
中の島から階段を登るとすぐのところ
3.蒼滝橋を架けた定五郎
昭和8年に架けられたこの橋は、湯の山では初めてのコンクリート橋です。大正の終わりころ旅館寿亭の風呂番で「間嶋定五郎」という人がいました。名前以外は定かでありませんが、陰ひなたなくよく働き、大番頭も「定五郎を見習え」といって皆を戒めたと言われています。この定五郎が亡くなったとき、賃金や心付けを貯めたと思われるたくさんのお金が見つかりました。「律義な定五郎らしいことだ。何か役に立つことに使わねば」と宿の亭主がこの橋を架けることを思い立ち、他の宿の旦那衆や定五郎を知る人達が志を出し合い造られたものです。
蒼滝橋を架けた定五郎"
蒼滝橋
4.阪 正臣の歌碑
この碑は昭和5年に、鈴木小舟歌碑の除幕式が行われたとき、参列した宮廷歌人の阪 正臣が、新築なった寿亭の水雲閣からの景色を詠んだ歌が刻まれています。その他この石段の壁には、湯の山温泉の開祖といわれる天台宗の行者、浄薫和尚の碑などがあります。
寿亭の階段の壁面にある歌碑
寿亭の階段の壁面にある歌碑
5.盛岡から来た植物採集家
植物採集家の須川長之助が、書記の斎藤松太郎を伴い湯の山にきたのは明治22年でした。長之助は杉屋に宿泊し、ここを拠点として御在所岳をはじめ鎌ヶ岳付近の植物採集を行っています。
6.温泉の湯元
湯の山温泉の泉源。ここから湧き出る湯が旅館、ホテルに配分される。約1300年前に夢のお告げで湯を発見した浄薫和尚の碑や、湯元の守護仏として祀られている薬師如来を安置した小堂がある。この東側に三本杉跡があるが、これは慶長のころ(1596~1615)、美濃の人で重い怪我が治ったしるしに三本の杉を植えたといわれています。
温泉の湯元
お堂の右手に湯元がある
7.湯の山三嶽寺 芭蕉の句碑
境内にあるこの句碑は、芭蕉が蓑を着て腰を折り、つくばるような形をしています。碑にある「文月や六日も常の夜には似す」の句は、この地で詠まれたものではなく、奥の細道の旅の途中、直江津で詠まれたものです。同じく碑にある「壬子立秋 義観代」は建立の年代と建てた人を表しており、桑名の仏眼院から三嶽寺へ義観が迎えられて3年後の嘉永5年(1852)がこの年にあたります。なぜこの句を選んだのかは定かではありませんが、境内の三本杉は景勝の地で、古杉の根元に俳人、歌人が集まり月見の宴や句会、歌会が催された文人の集まるところでした。
湯の山三岳寺 芭蕉の句碑
手前は菰野石(花崗岩)に取り付けられた説明盤
8.大石橋と小菅剣之助
四日市の港湾整備や工業発展に尽力した実業家小菅剣之助は、晩年を漢詩や書をたしなむ日々を過ごし、湯の山の景勝保存にも関心が高かった。昭和11年、大石橋の木橋が通行に危険だと知り、コンクリート造りの橋を架けることを発願し、みごとに昭和12年8月に完成祝賀会を迎えました。
大石橋と小菅剣之助
大石橋とその謂れを紹介した説明盤
9.佐佐木信綱の歌碑
この碑は昭和37年、信綱91歳のとき建立されたものです。川の向こう岸にあるため少し見にくいですが、
   白雲はそらにうかべり谷
   川の石みな石のおのずからなる
の歌が刻まれています。
佐佐木信綱の歌碑
川の向こう側にある歌碑
10.菰野山の調査
昭和2年に菰野村の辻 正道村長は、東京帝国大学教授の田村剛林博士を招いて、菰野山の景勝地利用と保存の方策について調査を依頼しました。博士と区会議員らは神明橋詰めの竹沢別荘を基地に、湯の山の森林、渓谷の実地調査を行いました。
田村博士は多くの保存と開発についての助言、指導を行いました。
菰野山の調査
川の流れに挟まれた通称「中の島」
「菰野山の調査」についての説明盤が置かれています
11.蛸杉
杉は普通まっすぐ上へ伸びる性質だが、御在所の杉は根元で七、八本に分かれ、蛸が足を広げたような形をしている。幼木のとき上から雪に押えられ、氷に閉ざされ悪条件の中で育つので異形の杉が生まれる。昔の樵人(きこり)は何百年も苦難に耐えてきた杉に畏敬の念を抱いて、斧や鋸を入れずに大切にしていた。
12.御在所山か、ございしょが岳か
菰野では昔からこの山を「ござんしょ」「ございしょ」と、下に「山」や「岳」をつけずに呼称してきましたが、今、一般的には「御在所岳」が広く使われています。御在所山という呼び名は、国土地理院によると、明治24年に陸軍参謀本部陸地測量部が全国の測量をしたとき、山脈や連峰の中で主峰となる山には、その下に「山」をつけて表記したとのことで、国土地理院の地図ではこの流れを受けて「御在所山」と記されています。
御在所山か、ございしょが岳か
ロープウエイ駅前にある説明盤

このページに関する問い合わせ先

コミュニティ振興課
電話番号:059-391-1160
ファクス番号:059-328-5995